大阪城公園 本丸広場の左手奥からS字坂を下ると広がるゾーンが「山里丸」です。割と普通の観光の人たちは素通りで、内掘にかかる極楽橋の方へ行かれるのですがちょっと隅々に目を止めると昔の歴史が色深く残る場所があり、興味深いスポットを見ることができました。
大阪城曲輪の山里丸とは?
「山里丸-歴史街道・案内板」に次の説明が書いてありました。
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪【くるわ】)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。天正11年(1583)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目【おひろめ】を行っている。
山里丸-歴史街道・案内板
秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀【まつ】る豊国社【とよくにしゃ】も建てられた。慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番【やまざとかばん】の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。
大阪城山里丸の場所はどこ?
山里丸は内堀に囲まれた大坂城本丸の中で天守北側の一段低い区域の曲輪で次のMAPの囲みゾーンのところです。(by google map)
「豊臣秀頼・淀殿自刃の地」の碑があります
大阪夏の陣で旧天守炎上の際、天守から逃れてきた淀殿と秀頼公が自刃した場所とされるところに記念碑(1997年建立)があります。ただこの場所は徳川期時代の大坂城の為、正確にはここではなくこの地下に眠る「豊臣期時代大坂城の山里曲輪」が正確な場所だと思われます。淀殿と秀頼公、そして大野治長など重臣たちは落城後、当時の山里曲輪の焼け残った櫓に籠もり、最後まで徳川家に恭順せず自刃したと言われています。
「豊臣秀頼・淀殿自刃の地」の記念碑のちょうど上あたり、山里丸の石垣に本丸へあがる階段があり、階段を登りきったところの石垣にトンネルが見えています。トンネルは本丸に通じており、天守の裏手に出るようです。朽ちていて封鎖されており説明もないので詳細は不明ですが、最初何となく、おっ!これは?戦国時代の逃げ道だったのかなとわくわくしかかったのですが戦時中のもののような感じです。
刻印石広場を越えて山里曲輪の奥にあるこの場所、普通の人は刻印石広場を見たらそのままスルーして北側の極楽橋へ向かい、内堀外へ出てしまうルートを取りますが、是非山里曲輪奥(東側)の歴史スポットも立ち寄ってみてはいかがでしょう。
「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」もあります
「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」は普段人通りが多いルートから外れた西の端の石段上の木に隠れた所にある為、見過ごしがちな場所です。
淀君他32名の殉死者名が書かれています、真田幸村の息子大輔の名などもありました。
(書かれていた名前↓)
淀君
- 大野治長、大野治徳、速水時之、速水出来丸
- 毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎
- 植原八蔵、植原三十郎、中髙将藍、中髙半三郎
- 津川親行、武田永翁、堀対馬守、武田佐吉
- 小室茂兵衛、土佐庄五郎、加藤弥平太、片岡十右衛門
- 森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝五郎、真田大輔
- 萩野道喜入道、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局
- 宮内卿の局、右京大夫の局、玉の局、饗庭局
刻印石広場があります
山里丸にある刻印石広場には刻印が記された石材が沢山並んでいます。築城には多くの大名が携わっていたため、石垣が他家の持ち場に紛れ込むなどの事態を避けるために石垣に刻印を刻んだと言われています。
石垣に空襲機銃掃射跡があります
石垣の表面に残る傷は、第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡です。 機銃掃射(きじゅうそうしゃ)によって付いたものと推定されています。 1945年(昭和20年)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度の大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となりました。【案内板の説明を表示】
山里丸へは内堀を跨ぐ極楽橋があります
内堀の外とは極楽橋が架けられ繋がっています。ここから天守閣を背景にした風景はとても人気の撮影スポットになっています。
秀吉時代には極楽橋の入口に立派な唐門があったようですが、家康が大阪城を潰した時にその唐門は移築し最終的に今竹生島宝巌寺にあり国宝になっています。
極楽橋の下の内壕には観光御座船が往来
極楽橋を渡り内堀沿いのすぐの所に金色の御座船の乗り場があり、観光客で 賑わっています。
極楽橋前からロードトレインで森ノ宮駅へ
子供じゃなくても大人も楽しめる愛らしい乗り物が走っていて歩き疲れた時、駅まで利用するのも楽でいいですよ(*^^*)